広告考古学・考現学

去年、某大手広告代理店で実績をお持ちの方が講師の広告セミナーに行ってみた。話の内容そのものは、確かに興味深いところも無くはなかった(そういう意味では期待以上)。ただね、やっぱりACCあたりで活躍してる活きの良い若手とか、中堅でももっとキレのある話題を、ちょっとぐらいは聞きたかったわけ。


広告は好きだ。あるものは芸術的ですらあるし、製品のバックグラウンドを想像させるものもある。少なくとも、そういうものが昔は確かにあった。そしてどういう訳か、それで商品やサービスがある程度売れていた(はずだった)。


しかし、新聞を買わない、雑誌を買わない、TVを見ない種類の人には、従来の広告としての広告は見なくなっている。広告と販売実績はリアルタイムに費用対効果が出てしまう。売れない製品の広告はもちろん必要ないし、逆に商品次第では広告が最初から必要ない。存在意義そのものが大きく変わっている。


民放の根幹を揺るがす、ある“深刻な”事態
http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tv_to_do/060113_1st/


セミナーで一番がっかりしたのは、質疑応答の時に言ってみた「ネットと広告を巡る関係は、既に大きなパラダイムシフトになっている。」という私の意見を、「そうは見ていない。」と全否定のような雰囲気で返されたこと。「ああ、そうか、ここは賞味期限が切れた話題だけが提供される場所なんだ。」というのは途中から薄々気づいていたけどね。


液晶の路線図の横に動画広告が流れていたり、色見本帳のような中吊りが沢山あったり、吊革までジャックされているような地下鉄に乗ると、一刻も早くここから立ち去りたいと思わずにはいられない。「新しいメディアが登場する時、古いメディアは芸術に活路を見いだす」と言ったのは誰だったか。紙媒体の広告だらけでギトギトの車両も何れそのまま博物館行きかもね。