やって来るのは、聖者か?

ONEキャンペーンは、貧困を作り出す側に少なからず荷担している極東の島国では、白い輪っかのブームで案の定キレイに終わった。そこに、日本語じゃない言葉で愛を説く胡散臭い小男(プラス、最近ちょい小太り)をフロントマンにした、あの男たちがやって来る。うわー、こうして若人と並ぶと、年を重ねたんやねー、と感じる。
The Saints Are Comingicon

The Saints Are Coming

The Saints Are Coming

スタンドよりアリーナ、後ろより前、端より中央、平日より週末、1枚より連番2枚が、当たり前に高値で取引される。聞こえて来るちょっとだけ深刻なメッセージに、自分が傷つかない程度にしか関わらない後ろめたさをうっかり感じてしまったとしても、大丈夫。新しいイベントとか、赤Podとか、ベスト盤とか、TVの特番とかのプチ免罪符を眺めているうちに忘れられるはず。

満足を説くのはいつも持てる者だけ、施しはそれをする側の勝手な都合と論理。持てる者でもなければ、施しをできるほど恵まれてもいないこんな自分に、一体何ができるって言うのか。小さな声とアクション、僅かばかりの金以上のものを、何も期待しないでくれ、お願いだから。未だに、指パッチン鳴らせすらしないんだから。

惨めに痩せ細ったどこかの子供たちを見ても、「extreme poverty(極度の貧困)」のアイコンの1つとしての、ごく表層的な情報処理しかできない。ほったらかしておいたままだと、何となく良くないんだろうなとは思うけれど、ちっとも深く感じることができない。想像力だけで補えないって。

水と食料と衣服、雨風を凌いで寝られる場所がある。AIDSも発病してない。字も読める、教育も受けた、銀行口座もある。コンピューターも使える、インターネットアクセスもある(すべて、中身はともかく)。でも、自分の豊かさの実感だけが、どこにもないんだよね。グローバルな視点で相対的に見て「あなたは、恵まれている十数パーセントの側にいるんですよ。」なんて言われても、ミニマムでパーソナルな自分の息苦しさの方が絶対的だからなぁ。


でも、荒れて痩せた大地の風景を目にすると、いつもそれがなぜか自分自身の中にずっとある言い知れない乾ききった感覚と、妙にシンクロしてしまうのはなぜなんだろう。熱波の記憶がホットフラッシュする。遠い第三世界の大陸が抱える緊急課題をぼ〜んやり眺めていたら、なぜかそれとそっくり同じ形の小さいグロテスクなものが見えてしまう。鏡の前で、双眼鏡を逆に覗いたら、それは紛れもない「極度の貧困」。

相似形のこいつは、誰かを助けたいとか役に立ちたいとか甘っちょろく考える前に、自分自身も助けてやれよ、って暗喩だと捕らえてみる。本来、問題とされていることとは全く何にも関係無いけれど、これが一番自分に受け入れやすい形かな。大体、シリアスな面ばかりで関われないんだよね、ガンバルのって長続きしないし。あくまでもカッコよく行きたい訳ですよ【ここ重要】。

自分のことに無関心・無神経だったり、天に向かって唾を吐いたりしたって、瞳を閉じた内陸の不毛の地を少しも潤せるはずもないし。それと向き合うことが、どこかの誰かの命のためではなく、結局は自分の命を救うために割と真っ当で有効なプロセスだとしたら、しない理由ばかり考えることや、悲観主義やってる場合じゃないな。てか、まず「皆、もう俺に対して発行されてる、ありとあらゆる債務を帳消ししてくれよ〜」と言いたいけど…うーむ、どこまでも自己都合。

聖者は来ない。でも、それでもいい。それでいい(来たら来たで、一杯おごるけど)。やって来る4人の男たちが、聖者であって欲しいと願っていないし、崇拝も盲信もしてもいない。神の御手にキスもするだろうけれど、悪魔と握手もできるしたたかさも持ち合わせていること、少し分かっているつもり。ただ、彼らがビートにのっけて伝えようとしているメッセージに、静かに耳を傾け続ける。そこに答えは無いかもしれないけど、自分に(も)繋がるヒントはあると思うし。矛盾だらけでも、それが何なのか知りたいと思っているうちは聞き続けていくだろうな。しつこい時、しつこいんで、ヤツらと同じぐらいに。

18シングルズ (初回限定盤)(DVD付)

18シングルズ (初回限定盤)(DVD付)